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グウンドの片隅の橙色に柳は目をやった。 甘い香りを風にのせ、流れ出ているその場所は控えめに金木犀の木があった。 足を進めると匂いは段段と強く鼻腔をくすぐる。 木の近くまで辿り着くと、何をするでもなく、その木を花を見つめていた。 何をしなくても時間はゆったりと、それでも確実に流れていき、ジャージ姿の2年や1年も徐々にグラウンドに集まってきた。 数週間前、引継ぎを終えた自分たちだけが制服姿だった。 もう放課後にグラウンドにいる必要はないのに、足は自然とグラウンドに向ってしまう。 自分は今少し感傷的になっているのではないかと、柳は思った。 表情ひとつ変えずに、ではあったが、寂しいとも思った。 思えば金木犀も去年より少し背丈が小さく感じられて、手を伸ばそうとした。
「花は手折るべきではないぞ、蓮二」
背中に投げかけられた言葉の持ち主は、わざわざ振り向く必要もなく確定できた。
「そんなつもりはないのだが」 「ならば、いい」
ようやく振り返ると、そこにはやはり真田が立っていた。 彼もまた制服姿であった。
「何をしに来ているんだ?」
「それはお前もだろう」
テニスがなくなった放課後は、大きな穴があいた様だった。 世間的には受験生と冠がつく学年ではあっても、内部進学を選んだ身ならば焦って勉学に励む必要もなかった。 もともと成績もそれなりにはよいほうであった2人も当然焦って机に向う必要もなく、 部活という予定が抜け落ちた時間をどう過ごしていいかいまだに考えあぐねていた。 両者ともその思いを口にはしなかったが、察していた。 暫しの沈黙が訪れる。 けれど、それは決して苦いものではない。 鮮やかな秋風の色と金木犀の香りを伝える時間になった。
「今年も金木犀が咲いたのだなあと思ったんだ」
「そうだな」
「去年より少し背丈が小さくなった気がするのはきのせいだろうか」
「そんな風には思えないが」
「そうか」
また視線を金木犀に戻すと、確かに背丈が小さくなったように感じられる。 そして2年前、つまり中学生になってから初めての秋の金木犀は・・・・・・。 そこまで考えて、はたと気付いた。 自分の背丈が視点が高くなった分金木犀の背丈が小さく感じられる。
「背が伸びただけのことか」
「どうかしたのか?」
「いや、金木犀が小さくなったのではなく、自分の背が伸びた分小さく感じたのかと思ったんだ」
「確かに、そうかもしれん」
真田も金木犀を見上げた。
「去年とかわらんな」
「そう変わるものなどないのだろうな」
「俺もたやすくかわれんからな」
「高校に入っても続けるんだな、テニス」
「蓮二はやらないのか?」
「続けるつもりだ」
「お前もそう変われんのだな」
「そうだな」
2人の視線の先にはテニスコートがあった。 張り巡らされた柵は自分たちを拒否するようにも見えた。 2年を主軸に据えた新しい編成で彼らは夏を目指すのだろう。 「そろそろ帰るか」 真田がコートから視線をそらす。 「ああ」 柳もコートから視線をそらす。 2人がコートから視線をそらした瞬間を狙い済ましたかのように、コートから人影が走り出た。 こちらを目指しているようで、足音が段段鮮明になる。 その音に2人は振り返った。 そこにあったのは切原の姿だった。 その姿を捉えると真田は数週間前、副部長の顔になり、口を開いた。
「まだ部活中だろうが、何をしている」
「先輩たちの姿が見えたからですよ〜、どうせやることないんじゃないですか?それなら1年の指導手伝ってくださいよー」
何時も通りの渋い顔の真田に臆することなく、いけしゃあしゃあとでも言うべき切原の態度に 真田はまた渋い表情を濃くした。 その表情に柳は、まったく素直じゃないなと思った。 テニスをしたくて仕方がないのに、このままなら拒否しかねない。 いや、間違いなく拒否するだろう。 本当に昔から世話のかかる奴だなと柳は微笑む。 その表情に、睨み合う切原と真田とは全く気付かなかったけれど、確かに柳は楽しげだった。
「その位いいんじゃないのか、弦一郎」
「さっすが柳先輩!話がわかりますね〜」
口笛を吹いて、一歩。 柳の右腕を掴んだ切原が軽快に走り出す。 グラウンドに向って走りだした切原とその切原に腕を掴まれたまま走る柳の姿に、 殊更渋い表情をした真田だったが、 彼も数秒後ゆっくりとグラウンドに足を向けた。
「真田副部長〜って、もう副部長じゃないか。まぁ、いいや!遅いですよ〜!」
響く切原の声に「全く」と呟きながらも真田も走り出した。 すっかり人影のなくなったグラウンドの片隅ではあったが、金木犀は揺れていた。 風が花を揺らし甘い匂いが漂っている。 去年も今年も来年も変わりなく揺れている。 決して変わらずグラウンドを見つめている。 全てを逃すことなく見つめている。
終
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